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大阪城と幕末関係まとめ、徳川家茂と慶喜の時代

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大坂城と大砲、金蔵、城中焼亡埋骨墳の写真

江戸時代末期(幕末)に勤王の志士たちが京都や大坂で活動を始め、関西が緊迫し始めます。

幕府は江戸に拠点を置いているので後手後手に回ることが多く、そのような事態を避けるために、十四代将軍・徳川家茂(いえもち)が上洛することを決めます。

※上洛とは京都にいくこと。

上洛後、大坂城に入ったのは十四代将軍・徳川家茂。そして十五代将軍・徳川慶喜の2人です。

現存する大坂城内の史跡から、この時代の2人の将軍と大坂城についてまとめてみました。幕末歴史観光の参考にしてみてください。

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本丸御殿跡

大阪城と本丸

十四代将軍・徳川家茂は自ら上洛した後、文久3年(1863年)4月に大坂城に入ります。徳川将軍が大坂城に入城するのは三代将軍・徳川家光以来、約230年ぶりとなりました。

大坂城に入った理由は、第2次長州征伐の大本営が大坂城だったからです。その時に宿泊していたのが「本丸御殿」です。

この時代、大坂城天守閣はなく天守台だけだったこともあり、本丸御殿に宿泊していたと思われます。本丸御殿は天守台の目の前にありました。

第2次長州征伐の最中、慶応2年(1866年)7月20日に徳川家茂は本丸御殿で亡くなりました。21歳でした。

次に将軍となったのが十五代将軍・徳川慶喜です。江戸幕府最後の将軍になります。

徳川慶喜もまた大坂城の本丸御殿に入り、イギリス公使ハリー・パークスやフランス公使レオン・ロッシュなどの代表らを謁見し、各国に兵庫開港を宣言します。

このような形で幕末で使われることになった「本丸御殿」ですが、戊辰戦争の時の大火で焼失しました。

本丸御殿跡については下の記事にまとめています。あわせて読んでみてください▼

関連大阪城「本丸御殿跡・紀州御殿跡」のアクセスとその歴史

 

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大砲

大阪城「大砲」

大坂城天守閣に入口にあるのが「大砲」。この大砲は幕末時代のものになります。

幕末の嘉永7年(安政元年:1854年)にロシア船「ディアナ号」が大坂湾に現れました。

これが切っ掛けで天保山に砲台が築かれ、その一門がこの大砲になります。明治初年に大坂城内に移されました。

当初は大天守台に置かれていましたが、昭和6年の天守閣復興の時に小天守台に移され、平成9年に今の場所に移動しました。

明治3年からは新政府軍が時報として、大阪城から空砲を鳴らしていました

大砲についてより詳しくは下の記事をあわせて読んでみてください▼

関連大阪城「大砲」のアクセスとその歴史

 

金蔵

重要文化財・金蔵とその横の豊臣石垣公開プロジェクトの準備中の様子

江戸時代の大坂城はたくさんの建物がありました。その一つが今も現存する「金蔵」です。

幕末の戊辰戦争の時に、徳川慶喜が大坂城を脱出。その後、薩長の官軍が到着し無血開城となります。

しかし薩長軍と一戦もできないのは納得できないとした幕府軍(幕臣たち)が火を放ったことで大坂城周辺は大火となります。

ほとんどが焼失してしまいますが、わずかに残ったのがこの「金蔵」です。他にもいくつか残っていましたが太平洋戦争により焼失しており、貴重な遺構になります。

金蔵について詳しくは下の記事をあわせて読んでみてください▼

関連大阪城 重要文化財「金蔵」のアクセスとその歴史

 

城中焼亡埋骨墳

大阪城「城中焼亡埋骨墳」石碑

森ノ宮駅から徒歩にある「城中焼亡埋骨墳」には、幕末の大坂城大火で亡くなった幕臣たちの遺骨が眠っています。

戊辰戦争の一つ鳥羽伏見の戦いで幕府軍が敗れた後、大坂城にいた徳川慶喜は、会津藩主松平容保、桑名藩主松平定敬らとわずかの側近と共に脱出します。

その後、八軒屋浜船着き場から天保山に向かい、そこから幕府の軍艦で江戸に向かっています。

残された幕府軍と薩長軍(新政府軍)は話し合いの結果、大坂城の無血開城になります。

しかし、それを納得しない幕臣たちが本丸御殿に火を放ったために、大坂城内が大火となり落城しました。

火を放ったあと幕臣たちは自害してしまいます。これを見た薩長軍(新政府軍)は武士の鑑だと焼け跡から遺骸を葬り弔いました。これが現在の「城中焼亡埋骨墳」です。

関連大阪城に薩長軍建立の石碑「城中焼亡埋骨墳」アクセスとその歴史

 

太鼓櫓跡

大阪城「太鼓櫓跡」

西の丸庭園入口近くにある「南仕切門跡」は通称「太鼓櫓跡」と呼ばれています。

この太鼓櫓跡はこの左右にある石垣の上に二層の太鼓櫓があり、時報として使われていました。

この南仕切門(太鼓櫓)は、戊辰戦争の城中大火によって焼失しています。

しかし、幕末に太鼓櫓があった状態の時に撮影された写真が現存しています。この写真は十五代将軍・徳川慶喜が写真好きでたくさんの撮影した写真の一枚です。

太鼓櫓跡について詳しくは下の記事をあわせて読んでみてください▼

関連大阪城「太鼓櫓跡(南仕切門跡)」のアクセスとその歴史

 

玉造口

大阪城「玉造口」と坂道

森ノ宮から大坂城に向かう時に通るのが「玉造口」です。

現在は左右に石垣だけしかありませんが、昔はその上に多聞櫓が建てられていました。

これも同様に、幕末の戊辰戦争の大火によって焼失しています。

関連大阪城「玉造口」のアクセスと櫓が焼失した歴史

 

青屋口(青屋門)

大阪城「青屋門」

大坂城公園駅や大阪ビジネスパーク駅などから大阪城に入る時に通るのが「青屋口」です。

青屋口も「口」とあるだけに桝形をしていて多聞櫓がありますが、これは復元されたものになります。

この青屋門も幕末の戊辰戦争の大火によって焼失しますが、明治時代に陸軍が修理。しかし太平洋戦争で半壊状態となり長年放置されていましたが、昭和44年(1969年)に復元されました。

青屋門について詳しくは下の記事をあわせて読んでみてください▼

関連大阪城「青屋門」のアクセスと2度再建された歴史

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